心地良い風に乗って潮の香りをふんだんに含んだ空気を、坂道は肺いっぱいに吸い込んだ。
周囲へ目を向ければ、海沿いの道を挟んだ逆側には高く聳え立つ山々が見える。
暑さを和らげる海風が葉を擦る音を聴きながらこの場所へ立つと、それだけで坂道の胸はとくんと跳ね上がる。
んーっ、と大きく伸びをしてみると、潮の香りに混じって緑生い茂る山の香りまでもが鼻腔を擽り、自然と頬が緩んでいく。
千葉とはまた違った自然豊かなこの土地は、坂道にとって思い出深く、また大切な場所でもあった。
“明日の合同練習に差し支えのないよう、この後は自由行動とする”
そう手嶋から告げられたけれど、箱根学園との合同練習なんて想像しただけでもワクワクしてしまって、
じっとしていることなどとても出来なかった坂道は、一人山頂まで来ていた。
トップでゴールラインを越えたあの日の光景は、今でも鮮明に思い出せる。
今泉くんと鳴子くんが限界まで倒れるまで全力で引っ張ってくれた。
信じて背中を押してくれた。
金城さん、田所さん、そして巻島さん。
尊敬する大好きな先輩達に、色んなことを教わり、たくさんたくさん支えてもらった。
一人では決して辿り着けなかった高みへ導いてくれたのは、最高のチームとメンバーがいてくれたお陰だ。
信じて 預けて 任されて チームのために全力で走る。
誰かがツラそうならそれを支えるのが総北というチームだ。
総北に入って良かったと心から思う。
皆のために走れることが、こんなにも楽しいなんて知らなかった。
──僕も、先輩達のようになりたい
後輩達に、総北の魂を伝えられるように。
他人に教えられるほど立派な人間ではないけれど、先輩達から学んだ事は沢山あるから。
自分なりに伝えていけたらいいなと思いながら空を見上げると、坂道の脳裏にある人物が過ぎった。
ライバル校でありながら、共に走ってくれた先輩。
獲物を狙うような表情で走るその人は、前を行く者を決して逃さない。
無駄のないコース取りと弾丸の如き駆け抜けるスピードに圧倒された。
一緒に走る機会が無ければ知り得なかったと思う。
あの時の衝撃は、この先いつまでも坂道の心を揺さぶり続けるだろう。
今朝携帯に届いたメールには[コケんなよ]という一言だけが書かれていた。
絵文字も何もなくそっけなく見えるけれど、そこがまた彼らしくて坂道は気に入っている。
“頑張れ”という言葉を使わない代わりに、ケガするなとかメシを食えとか、
いつも彼なりの気遣いがちゃんと伝わってくる言葉を送ってくれるから。
口は悪いが仲間想いで優しい──大切な人の姿を思い浮かべながら、坂道はロードへ跨った。
「コレ!行きましょうっス 小野田さんッ!」
宿に帰ってくるのを待ち兼ねていたかのような勢いで飛びつかれ、よろめいた坂道の背を今泉が支える。
「あ、ありがとう今泉くん」
「あぁ。……おい イキリ、いい加減その癖やめろ。危ないだろうが」
「……………サーセン」
坂道が怪我をしたらどうするんだと叱られ、不満そうに口を尖らせながらも、素直に謝る鏑木。
坂道を慕うこの後輩の抱きつき癖は、最近特に酷くなっているのではないかとチームの間でも話題になるほどだった。
勿論それは坂道相手限定の話であるのだが。
「平気だから気にしないで。それよりそんなに慌ててどうしたの?」
「あ、そうっすよ見て下さいコレ!2枚貰ったんで一緒にいきましょう小野田さんっ」
コンビニで引いたクジで当たったのだと、得意気に胸を反らす鏑木に笑いながら、握らされた紙片を開く。
《 海巓丸 》
お好きなネタ一皿無料
かけうどん30円引き
一枚につき二名までと記載されたクーポンは、
千葉では馴染みのない名称だが、神奈川では見掛けることの多い回転寿司屋のものだった。
──このお店……
「行きたいっ!」
衝動のままに発した声が思いの外大きくなってしまって、少し離れた所にいた手嶋と青柳が何事かと振り返る。
一緒に行こうと言った鏑木までもが驚いた顔をしているのだから、相当なリアクションだったのかもしれない。
「なんや小野田くん、そない寿司好きやったんか」
「俺も初めて聞いたぞ」
「あ、うん実はそうなんだ。あは、ははは…」
意外そうな目を向ける鳴子と今泉に、咄嗟に相槌を打った坂道だったが、実際は特別寿司が好きなわけでも何でもなく。
じゃあ何だと突っ込まれても困るので、笑って誤魔化すしかなかった。
「ッシャァァー!なら決まりっすねッ」
「ぅぐぐっ…い、痛いよかぶら、ぎく、ん」
「あ!コラ離れやカブ!!小野田くん殺すきぃか!」
「この手を早く退けろイキリ!坂道にしがみ付くなっ」
抱き付かれることに不満があるわけではないのだが、背後から首に飛び付かれるのは流石に苦しいのでちょっとやめて欲しいかも。
ワァーギャーと騒々しくも賑やかな光景は、総北にとっては日常茶飯事で。
それを諌める手嶋達三年には申し訳ないと思いつつも、これまで人付き合いが皆無に等しかった坂道からすれば、
何より楽しい大切にしたい瞬間だった。
「でも、本当に僕で良かったの?」
皆快く送り出してくれたが他にも行きたいと思っていた人がいたかもしれない。
全員で来れれば良かったのに、と思いもしたが運動部員の胃袋は底知れない。
いくらお手頃価格とは言え、全員でとなれば合宿費用から出さざるを得なくなるだろう。
少食な小野田だからこそ、手嶋も行くことを許可してくれたのだろうと思う。
「いいんすよ。じゃなきゃ最初から誘ってないっすから」
「そっか…うん、ありがと」
「……この店、知ってるんすか?」
「え、」
「いや…無料に惹かれたわけじゃなさそうだし。それになんか、小野田さん嬉しそうなんで」
指の間に挟んだ紙片をヒラヒラと振ってみせる鏑木は、意外と勘が鋭い。
それが当たることもあれば、そうでない場合もあるけれど、大体が見当外れな後者であることが多い。
そこがまた鏑木らしいところではあるのだけど。
「……ある人にね、何度か連れて行ってもらった事があるんだ」
大学へ進学してからは中々思うように会えなくなってしまった恋人は、今頃何をしているんだろう。
荒北とは昨年のインターハイが終わってから、度々連絡を取り合うようになった。
メールや電話だけじゃなくて会って話したいと荒北に言われたことが切っ掛けで会うようになって。
それからは時間の許す限り、千葉と神奈川を行き来しながら距離を縮めていった。
でも、会いたいと思うようになったのはきっと僕の方が先だと思う。
会いたかったくせに、緊張して全然うまく話せなくて、空回ってばかりの坂道の手を引き荒北が案内してくれた店が、この『海巓丸』だったのだ。
立ち並ぶ幟に掲げられた《安い・デカい・美味い》の宣伝文句通り、手頃な価格の割にはネタが大きく食べ応えがあった。
それだけじゃなくて、うどんのお出汁が凄く美味しかったのだ。
ほっこりするような優しい味に、一気に緊張が解れていって、そこからは楽しかった記憶しか残っていない。
それからだ。
何かに落ち込んでいたり、悩んだり、傷ついたり──坂道の気分が落ちていると、必ず此処へ連れてきてくれた。
僕にとっての想い出の場所。
「小野田さん?…どしたんすか?」
「──ううん、何でもない。あ、ほら着いたよ!」
休日ということもあり、店内は家族連れで溢れていた。
夕食の時間にはまだ少し早い頃合いだが、僅かながらも早めに来れて良かったかもしれない。
「すっげぇぇー!あんなウニがてんこ盛ってんの初めて見たっす!!」
「ちょ、っ、鏑木くん…っ、恥ずかしいから静かにしようよ…」
種類豊富な寿司達がレーンを流れるのを、カウンター越しから身を乗り出すようにして見て回る鏑木に、
周りからもくすくすと笑い声が上がっている。
そんな鏑木を真似する子供達まで出てくる始末で、顔から火が出そうな恥ずかしさに耐えながら、
後ろから抱きつくようにして彼を引っ張り謝り歩いていた坂道が、ある席へと顔を向けた時だった。
「小野田くんじゃないか」
赤茶色の髪から覗く少し垂れ気味の目に見覚えがあり、坂道は足を止める。
トレードマークと言っても過言ではないパワーバーは、流石に此処では持ってはいなかったが、その手にはパフェを抱えていて。
スプーンで指すそのポーズが、何だかバキュンポーズのようで笑いそうになってしまった。
「──新開さ、」
「行儀ワリィーことすんなッ」
パシッと叩く音と、聞こえてきた鋭い声にハッとする。
席へと案内してくれた女性スタッフの陰に隠れ、坂道の立っている角度からその姿は見えないが、
どうやら新開一人で来ていたのではなかったらしい。
けれど、姿は見えずとも坂道には分かる。
間違えようがない。
だってそれは──
ずっと会いたいと焦がれていた相手なのだから。
「荒北さん?!」
「よぉー小野田チャン。久しぶりィ」
女性スタッフの横から飛び出すようにして顔を覗かせた坂道に、荒北はククッと笑った。
「ちょっと小野田さんっ。誰なんすかこの人達」
知り合いだと伝え同席させて貰えることになったのだが、会えた嬉しさと興奮に舞い上がっていた坂道は、
腕を引っ張られたことで漸く意識を隣に向ける。
「あっごめん!此方の方々はね、箱学自転車部OBの荒北さんと新開さんだよ。で、彼は一年生スプリンターの鏑木一差くんです」
「ちょっ、間違えないで下さいよ小野田さんっ。オレはオールラウンダーですよ!オールラウンダー鏑木一差っす」
「………って言ってるけど?」
「あー・・・ははは、」
そういう事にしておいて下さい、と耳打ちする坂道に、事情を察してくれたのだろう。
「小野田くんも大変だな」と新開が笑った。
──この感じ、懐かしいなぁ
新開とは直接話す機会がなく、まともに会話するようになったのは、荒北と会うようになってからだ。
掴み所がなくいつも飄々としている印象だが、実際話してみるととても気さくで優しい人だった。
周囲を良く見ていて、誰とでも仲良くなれる、そんな感じだ。
そんな新開は、特に癖のあるタイプへの扱いが上手いと前に荒北が話していた通り、鏑木と打ち解けるまでにそう時間は掛からなかったようで。
二人は早速何やら楽しそうに会話を始めている。
──少し、日に焼けたのかな…?
先程から黙ってペンを走らせている荒北へ視線を移すと、それに気付いた彼がフッと笑った。
やはり最後に会った時より、心なしか肌が黒くなったような気がする。
野性味が増した感じがして、更に格好良くなった。絶対に。
「あの、荒北さん達はどうしてここに?」
「塔一郎から連絡を貰ってね。総北との合同練習なんて楽しそうだし、内緒で激励に行こうかなと思って靖友に声を掛けたんだ。
ま、こいつは誘う前からそのつもりだったようだけど」
「え、だって昨日の電話ではそんなこと一言も…」
「へぇー電話してたのか」
「っセ!言っちまったらつまんねーだろうが。……驚かせたかったんだからヨ」
照れ臭そうにそっぽを向く荒北に頬が弛む。
嬉しい。
メールでも電話でも、荒北を感じられればそれだけで幸せだった。
どんなに忙しくても毎日連絡をくれる荒北に、感謝こそすれそれ以上の望みなど言える筈もなかったし、言うつもりもなかった。
けれどこうして、実際に会えるとやっぱり違う。
嬉しさとかドキドキ感とか間近で味わう格好良さとか、全てに心が揺さぶられる。
「嬉しいです!凄く驚きましたけど…荒北さんとお会いできて、とても嬉しいですっ!」
「お、おぅ………」
「小野田くんって、ほんと嬉しそうな顔するよなぁ……ね、オレは?」
「っ!も、もちろん新開さんとも久しぶりに、」
「ッセェー!てめぇーはいんだよっ、つか見んなバカ!」
巻き付けた腕で新開の目を塞ぎ、ぎゃいぎゃい取っ組み合う二人の姿に「相変わらず仲良しだなぁ」と懐かしく思っていると、
ふと鏑木に袖を引かれ顔を寄せる。
「もしかして──あの人すか?この店に一緒に来たことあるってゆー、」
やっぱり鋭い。
動物的勘なのか、たまにドキッとするようなことを口走るって誰かも言っていたっけ。
「──うん。とてもお世話になってるんだ」
「…ふーん。お世話ならオレも負けてませんけどね」
「え、なに、どういう…」
「せっかくだし大トロにします?やっぱ無料になるなら高いやつがイイすよねー」
早く早くと急かされるがままに、流れてきた黒皿を鏑木に渡す。
パクッと一口で平らげた鏑木の目がきゅぅと細まった。
それだけで美味しさが伝わってくる。
「ンまぁー!やべーすトロけるっすよこれ!小野田さんも食ってみてくださいよ!」
「あ、う、うん……」
──どうしよう、苦手なんだよね
食べられないことはないのだが、できれば避けたいのが本音だ。
けれど折角の後輩の好意を断ることなど、坂道にできる筈もなく。
「あ、っ バカ──!」
えいや、と口に放り込むのと同時に荒北の制止の声が聞こえたが時既に遅し。
鼻の奥にツーンとした刺激が走り、みるみる内に涙が込み上げてくる。
「ぅ…っ、く…ん、ん…」
「早く飲めバカっ、…ったく無理してんじゃねーよ」
「す、ずびばしぇ…、」
こういう時、お茶じゃなく水を差し出してくれるのが荒北だ。
店員を呼び止め、氷はいいから早くと叫ぶ彼の姿を見るのは、初めて此処へ来たあの日以来。
懐かしいなぁなんて想い出に浸っていたら「泣くか笑うかどっちかにしろ」と額を小突かれてしまった。
渋い顔の荒北を見つめながら、それさえも嬉しいと思ってしまう。
──あぁ 幸せだな
鼻の痛みなんかどうでも良くなるくらいに。
「へぇ。小野田くんは山葵が苦手なのか」
「うぅぅ…どうもこのツンとくる痛みがダメでして…」
「あのっ、……サーセン小野田さん、オレ…」
「こっちこそごめんね。最初に伝えておけば良かったよね」
責任を感じて肩を落とす鏑木の頭を、坂道はそっと撫でる。
言わずに食べてしまったのは僕の方だ。
鏑木が謝ることではない。
「小野田チャンは大人しくこっち食えばいーの」
丁度運ばれてきた皿の数々に、坂道は目を瞬かせた。
いなり寿司にいくら、干瓢巻き、ツナマヨ軍艦、茶碗蒸し。そして、──うどん。
どれも坂道の好物ばかりだった。
でもどうしてタイミング良く、しかも坂道が好きな物が運ばれてきたのか。
坂道自身は荒北に会えた嬉しさで胸が一杯で、此処へ来た目的すら頭から抜け落ちていたくらいだ。
荒北のことばかり見ていて、注文なんてしていない。
──そう言えば荒北さん、さっき何かを書いて……
「もしかしてこれ…荒北さんが頼んで下さったんですか?!」
「?そうだけど。小野田チャンが食えんの限られてっし、とりあえずそんだけ先になァ。
他に食いたいモンあったら言えヨー」
どうって事ない、当たり前だと言わんばかりの返しが、坂道の心をぐわんぐわんに揺らす。
たった数ヶ月会わない間に、日焼けをして髪も少し伸びて、見た目だけでもぐっと格好良さが増しているのに。
それが嬉しくもあり、ちょっぴり不安というか心配というか。
そういったマイナスな気持ちが湧いてしまったのも事実で。
だけどそんな些細な事を気に掛けるなんて、僕は荒北さんの何を見てきたんだろう。
会えなかった期間とか、変わってしまった見た目とかは関係ない。
この人は何も変わっていないじゃないか。
「ヒュウ 小野田くんの好みまでしっかり把握済みとは、なかなかやるな靖友」
「ケッ、たりめぇーだろうが。……てめぇもちゃーんと覚えとけよ。大事なセンパイ、なんだろ」
「────ッ、」
荒北と鏑木の間に不穏な空気が漂う。
笑っているのに、何だろうこのピリピリとした感じ。
先に視線を外した方が負けとでもいうような、正に一触即発状態におろおろする坂道を見兼ねた新開が、のんびりと口を開く。
「愛されてるねぇ」
「へ、あい……え、っ?」
前を見れば、頬杖をつき不貞腐れたように口を尖らせた荒北に「早く食え」と手で払われた。
その顔が僅かに赤いようにも見えるが、気の所為だろうか。
ひとまず出汁の良い香りに抗えないお腹の虫を治める為、坂道はツルツルとうどんを啜る。
やっぱり美味しい。
母さんが作るうどんに似た優しい味がする。
湯気で曇るメガネの向こうで、瞳を細めて笑う荒北が見えた。
「荒北さん新開さん、今日はご馳走様でした。鏑木くんもほら、」
「新開さん、荒北さん、あざっした!」
大きな声と共に体を折り曲げる鏑木は、やっぱりいい子だと思う。
先輩に対しての礼儀がなっていないとか、敬語を使わないとか色々注意をしなければならないこともあるが、言うべき事はちゃんと言える。
元来素直な子であることを坂道は常々感じていた。
「でも良かったんでしょうか…僕達の分まで…」
結局クーポンを渡しただけで、後の支払いは全て荒北達が済ませてしまった。
財布を出そうとするも頑なに拒まれてしまってはどうしようもなく、偶然出会ってしまったが為に逆に悪い事をしてしまったような気がしてならない。
「可愛い子達とデートさせて貰えたんだ。これくらい奢らせてくれ」
「誰と誰がデートだってェ?フザケたこと言ってんじゃねぇーヨ!オレンジ頭の分はてめェーが払えッ」
パチリと片目を瞑る仕草は、新開だからこそ様になっていて、思わず見惚れてしまう程に格好良かった。
それもすぐさま荒北の張り手に寄って阻害されるのはいつものことなのだが、隣に立つ鏑木は未だ余韻に浸っているかのように新開に見惚れている。
昔から東堂と人気を二分していたとは聞いてはいたが、性別関係なく周囲を魅了してしまう新開は、大学生になって更に色気が増したようにも見える。
自分なんか学年が上がっただけで、何も変わっていないのに。
自分だけが取り残されていくような気がして、
恥ずかしいやら情け無いやらで気分まで落ち込んでくる。
「オラ、行くぞ小野田チャン」
不意に頭上から聞こえてきた声に、ビクッと身体が震えた。
──あぁもうっ。また悪い癖が出ちゃったじゃないか
あれこれ考えたって仕方ないと散々言われてきたはずなのに。
顔を上げようとした坂道は、けれど首ごと荒北の手によって強引に引き寄せられてしまった。
そのままずるずると駐輪場へ連れて行かれそうになって、慌てて後ろを振り返る。
「え、行くって何処へ?!待って下さい、鏑木くん達が、」
「なーに小野田チャン。オレとはデートしてくんねぇのォ?」
──で、デート?!
それは勿論したいけど。
喉から手が出る程にしたい。
ずっと会いたいと思っていた人が手の届く距離にいるのに、このままサヨナラするのは寂しいと坂道自身も思っていたのだから。
けれど後輩を置いていくのも気が引けるし。
かと言って一緒に連れて行くのも、それはそれでおかしな空気になりそうだし……
──うわあああ でもやっぱり…ごめんっ、鏑木くん!
「あの、荒北さん……また一緒に、走りたいですっ。──走ってもらえますか?」
「ハッ。久しぶりに会ったってのに、色気ねーナァ小野田チャンは」
「だめ、ですか?」
自分に色気が無いのは百も承知だ。
けれど巻島も言っていた。自転車で会話をする、と。
会えなかった時間を埋める最良の手段──
それはやっぱり自転車だと思うから。
「最初からオレも、そのつもりだっつーの」
そう言って坂道の頭をくしゃくしゃと混ぜる荒北は、今日一番の笑顔を見せてくれた。
「ごめん鏑木くんっ、先に戻っててぇー!」
遥か前方から聞こえてきた坂道の声に返すこともできず、ただポカンと鏑木は立ち尽くすしかなかった。
そんな鏑木の肩に手を乗せた新開が、前方を見つめポツリと漏らす。
「生半可な気持ちじゃ、靖友には勝てないよ」
坂道の口からはっきり聞いたわけではない。
けれど、二人の間に流れる空気は、ただの先輩と後輩だけではない。
特別な関係であることが感じ取れるほどに甘く、熱量を伴うものだった。
「分かってるっす。……あの人の目、マジでしたから」
自分の方が知っているんだとばかりに余裕綽々な態度が気に食わなかった。
そうかと思えば、威嚇丸出しな眼光で鏑木を睨み付ける。
そして、坂道にだけ向けるあの優しい眼差し。
言葉の端々から滲み出る想い、それは──
「大事にされてんすね、小野田さん」
見せつけられたようで悔しいけど。
小野田のあんなに幸せそうな笑顔を見てしまったら、張り合うことすらアホらしくなってくる。
「あの二人なら心配いらないよ」
「……そっすね。ま、あの人がいない間は、オレが小野田さん守りますけどね」
あの人の代わりになんてなれるわけもないけれど、少しでも笑ってくれるのなら。
寂しさとか悲しみとか感じる時間が少しでも減らせるのなら──
それくらいならいいっすよね。
「ヒュウ。言うね、オレンジ頭くん」
「鏑木っす。鏑木一差」
「ヨシ、おれたちもデートしようか 鏑木くん」
ロードに跨り示された指の先には、長く続く直線が熱気によって揺らめいている。
スプリンターだと言っていたこの人は、一体どんな走りをするのだろうか。
見てみたい。
もっと色んな奴とたくさん競って、ぶっ倒して
──強くなってやる
「ンな簡単に落ちねーすよ、オレはっ」
「うん、いいね。燃えるよ」
この日、『箱根の直線鬼』の異名を持つ新開隼人と対戦した鏑木は、宿へ戻るなり打倒新開を掲げると
猛練習を始め、周囲を混乱させることとなる。
一方、ほわほわと幸せオーラ全開で戻ってきた坂道もまた、鏑木の様子がおかしいとか、何があったのか等と
チームメイトからの問い詰めを受けながらも、頭の中は明日も荒北と会える嬉しさで一杯なのだった。
明日はもっといい日になるといいな
fin.