負けた───
高校最後のインターハイ。王者として君臨し続けた箱根学園は、
突如現れた新星 ──自転車競技など到底無縁そうな細い身体に細メガネをかけたド素人 総北高校ゼッケン176。
小野田坂道という少年に優勝の座を奪われた。
結果を耳にした瞬間、悔しいという想いは不思議と湧かなかった。
自分でも何故なのか理由は分からない。
だが、あんなに細い身体のどこにそんな力があるのかというくらいがむしゃらに回す回転力と、
ひたすらに前を見据えるあの大きな瞳に宿る強い意志とは対照的に、眩しいほどの笑顔を浮かべ
坂を駆け上がっていく小野田の姿が容易に浮かんでしまったからだと思う。
そして何よりこの結果を招いた原因には、荒北の行動も多分に含まれていたからだ。
「小野田チャンだけ途中に置いてきゃ良かったかなァ…」
泉田の前で漏らした小さな後悔が、一人になったテントの中で再び唇から溢れる。
後悔したって後の祭りだ。
だが、言うほど後悔しているわけでもない。
福富に似た真っ直ぐな眼差しと追い付きたいという強い想い、そして待宮の卑怯なやり方が許せないと言って、
震えながらも懸命に食い下がってきた小野田。
その上想像以上の面白い走りをするもんだから、気付けばこっちまで熱くさせられていた。
前を追い掛けたいんです
ボクと一緒に協調してください
貴方しかいないんです
お願いしますと何度も頼み込む姿に根負けした。
(最初はあんなにビクついてたくせにヨォ)
きらきらとした光を湛えた瞳で「すごいですっ!」と賛辞を述べ、協調を終えた直後には律儀に礼まで伝えにくる真っ直ぐさは
荒北にとって初めての何とも言えない擽ったくて落ち着かない感覚だった。
ラストステージ スプリントラインまで残り1km。
限界が近い事を悟った荒北は、最後の力を振り絞り全開でチームを引いた。
そして──、落ちた。
ペダルを踏む力は辛うじて残っていたが、息も絶え絶えの中顔を上げる気力も起きないほどに疲弊しきっていた荒北が意識を飛ばす瞬間、
ふと叫ぶように誰かに名を呼ばれた気がして髪の隙間から視線だけを上げた。
(ハッ、なんて顔してんだヨ…)
後ろを振り返りながら走る小野田の大きな瞳からボロリと涙が溢れるのが見え、バァカ 前見て走れっつーの、と力無く笑う。
小野田チャンは本当にバカだ
オレは敵だぞ
たかが一度協調してやったくらいでもう仲間気取りかヨ
ハッ、とんだ甘ちゃんだゼ
そんな簡単に気ィ許してんじゃネェヨ、ぶアァァァカッ!!
できることなら面と向かって怒鳴ってやりたいところだが、残念ながらそんな力はこれっぽっちも残っていない。
だが、このままでは今にもUターンしてきそうなほどに、前へ進むはずの小野田のペダルの回転速度が
明らかに落ちていっているのが霞む視界の中でも見てとれた。
ホント ロードレースに向いてねェよおまえ
――けどさ 何でだろうナァ
むず痒くて仕方がねぇってのに 嫌じゃねェんだわ
更に怖ェのがサ…、
「イケェェェ──っ、小野田チャン!!!」
嬉しいと思っちまうんだからタチ悪ィんだよクソがっ!!
痺れのせいで感覚のない右腕で前方を指差し、もう大分距離が開き僅かにしか見えない小さな少年へ伝え叫んだ言葉が
果たして届いたかは分からないが、意識を手放す間際に聞こえた声は現実なのか願望なのか。
「はいっっ!!!」と強い決意を持った返事が遠い彼方の方から返ってきた気がしたんだ。
まだ力の入らない上体を起こすまではいいが、それ以上の動作をする気にもなれず、
ベッドの背に凭れたまま目を閉じれば瞼の裏にはっきりと甦る最後の光景に荒北の口角が上がる。
「敵に塩を送るなんざ…ハッ、ガラにもねェことしちまったゼ」
他人のコトなどどうでもいいし、福富が絡むことでなければ、荒北にとっては
基本誰が何をしようが知ったことではない。
他人にどう思われようが関係ないし逆も然りだ。
だが、悲し気に顔を歪ませ悲痛の色が篭った声で荒北の名を叫ぶメガネの少年を、
どうにかしてやりたいと思ってしまったのだから仕方がない。
凄いですっ、と満面の笑みで褒めちぎるのを知ってしまったから。
それが無性に嬉しかったなんて口が裂けても言わないが、ただもう一度…
最後にもう一度だけ自分に向けるあの笑顔を見たいと思ってしまったのだ。
外が騒がしくなってきた。
「そろそろ迎えのバスが来るそうなので見てきます」と言った泉田がテントを出て行ってからどれくらい経つだろうか。
校舎へ戻ったらきっと反省会が開かれるであろうが、そんなのは無視して今日はもうそのまま寮へ直行してやろうと心に決める。
レースに負け通夜みたいな空気に付き合ってやれる気力も体力もさすがに残っていなかった。
(しみったれた空気はバスん中でも同じか…)
重い沈黙漂う車中を想像し、面倒極まりないと大きな溜息を吐くと同時に入口前に人影が映るのが見えた。
泉田だろうか。それにしては身長も身幅も足りない気もするがそんなことどうでも良かった。
さっさと面倒なコトを片付けて寮のベッドで眠りにつきたい。
簡易ベッドに文句をつけても仕方がないが、板が引かれているのではないかと思うくらいの硬さのこのベッドは、
とても長時間使用できる代物ではなかった。
漸く迎えが来たかと思えば、なかなかその人影が動かないことに身体の痛みも相まってイライラが募っていく。
「おっせぇーんだヨ!ったく、いつまで待たせんだ!!」
「ひゃいぃっ?!」
いつもより覇気がないとは言え口の悪さは顕在な荒北の怒声に、テント外の影がびくーんとしなり、聞こえてきたのは独特な怯え声。
「すすすすみませんっっ、し、失礼しまっしゅ!!」
噛みまくりな声と共に勢いよく入ってきた人物に、荒北は固まった。
……何だ、何が起こってる?
想像していた人物像を遥かに飛び越え、全く予想だにしていなかった男が其処に立っていた。
ぺこぺこと頭を下げべプシを三本ほど両手に抱えるようにして入ってきたのは、
先程まで思い返していた人物────
小野田坂道 本人だった。