「小野田 、チャン──?」
突然の訪問者に荒北の頭は整理が追いつかないでいた。
脳にまだ十分な酸素が行き渡っていないということだろうか。
幻覚にしては声も姿も鮮明だが、それなら目の前に居る人物が此処にいる理由は何だ。
「あ、あああの…っ、突然お邪魔してすみませんっ!体調は、どうでしょうか…?」
「アー・・体調?見りゃワカんだろ、このザマだ。足はイカれちまって動かねぇし手の痺れも治まってねェ。
これでもかってほど全力で引いて、肺も心臓も爆発しちまうんじゃねぇかと思うくらい回しまくったってのに、
どっかの誰かサンにてっぺん掻っ攫われて傷心チュウなんだけど?」
「はわわわわ、っ!すみませんすみません、荒北さんの気持ちも考えず会いに来てしまって…あ、あの…ほんと、すみません…」
考え無しでした…、と肩を窄ませる姿はまるで叱られた仔犬のようで、
ついには垂れた耳と尻尾までもが見えてくる錯覚に見舞われた荒北の口から、大きな溜息が吐き出される。
それを耳にした小野田の身体がびくんと震えるのが目に入ったが、今の荒北には気にしてやれる余裕もなかった。
元来荒北は犬派なのだ。
くりくりとした目でじっと見つめられたり、叱られてしょげたりされるとどうにも我慢ならなくなり
構い倒してしまって、最終的にはウザがられいつも逃げられてしまう。
今の小野田がまさにソレだ。
今日初めてまともに会話をしただけの間柄なのに、いきなり頭を捏ねくり回したりしたら
それこそ怯え逃げられるに決まっている。
冷静になれと既の所で踏み止まった荒北が吐き出した二度目の深い溜息が、またもや小野田を怖がらせしまったようだが、
こんな葛藤を説明できるわけもなく。
これだから”喰われそう”だなんて言われちまうんだろうなと自嘲する。
「ったァく、間に受けてんじゃねェよ!冗談に決まってんだろーが」
とにかくいつまでも入口に立たせたままにするわけにもいかず、荒北はガシガシと髪を掻き毟りながらこっちへ来いと親指で促した。
荒い言葉遣いではあるが、怒っているわけではないことが伝わるようできるだけ目線は合わさないでやる。
人相の悪さを自覚しているだけに、これくらいのことしかしてやれないのが情けないところではあるのだが。
それでも幾らかの効力は発揮してくれたようだ。
小野田の表情がやんわりと解れていくのが視界の端からも見てとれ、自分までもが安堵を感じていることに荒北は驚く。
ベッド脇へと進む足取りまでもが心なしか軽くなったようにも見え、無性に庇護欲がそそられた。
お見舞いとお礼を兼ねてと差し出されたベプシは誰の入れ知恵か。
大方東堂辺りだろうと予想はつくがそれはそれで何となくムカつく。
けれど自分の好物を小野田に知ってもらえたと思えば胸がすいた。
「アー……とりあえず そこ、座れば?」
先程まで泉田が座っていたパイプ椅子を促せば、素直にすとんと腰を落とす小野田の腕から
礼と共にベプシを取り上げた。
瞬間、見ているこっちが恥ずかしくなるくらいの笑顔を向けられ
思わず目の前の丸っこい額を軽く押しやり距離を取る。
(コイツと居るとなんか調子乱されンだよな・・・)
小さなサイドテーブルに置かれたボトルから水滴が滴り落ちていくように、
荒北の心の棘もまたころんと抜け落ちていく。
とりあえずその場で一本をガブ飲みしながら、
思っていたより渇ついていた喉に流れ込んでくる冷たさとピリリとした刺激の心地良さを味わうことにしたのだが。
ニコニコしながらこっちを見る小野田からの視線がムズ痒すぎてどうにも落ち着かなかった。
「………でェ?小野田チャンは何しに来たのォ?」
立てた膝に肘を付いた姿勢で、足先から頭まで舐めるように見上げると最後にメガネの奥の大きな瞳と視線がかち合う。
それがゆるりと逸らされたのはほんの一瞬で。
「どしたァ?」と問えば、何でもないと顔の前で両手をぱたぱたさせる小野田。
「え、ええっとですね、その…お礼を言いたくて。あ、あの・・荒北さんっ
今日は、と、突然の無理な申し出にも関わらずボクと協調して下さりありがとうございましたッ!!」
「無理な申し出の割にはしつこかったけどナァー」
そうやって態と悪態をついてやれば、あわあわと謝罪の言葉を繰り返し仕切りに頭を下げるであろうことなど想像の範疇で。
予想通りの反応につい吹き出しそうになるが、グッと堪える。
ついつい虐めてしまいたくなりそうな素直な反応は、荒北のような男の前では避けた方が良いと教えてやるべきかもしれない。
目の前で忙しなく揺れる黒髪に埋もれた柔らかそうな渦を巻く一点に、
可愛い旋毛してんナァ、などとぼんやり眺めていた荒北は、
不意に顔を上げた小野田の表情に、思わず息を呑んだ。
そう、もう一度見たいと願ってしまったあのキラキラとした笑顔。
楽しいと言って真波と笑いながら走っていたあの時の笑顔とは違い──
それはもうほんわりとした柔らかな笑みが荒北に向けられていたのだ。
「あの時、集団から抜け出す荒北さんが稲妻みたいにシャシャシャーッて駆け抜けていく走りが
速くてか、かっこよくて!無駄のないギリギリのコース取りもすごかったですし、
少しでも気を抜いたら振り落とされそうなスピードと風圧に圧倒されてしまって怖かったんですけど、…」
「・・・・」
「でも、荒北さんの背中がついて来いって言ってくれているようで、ボク、嬉しくなってしまったんです!
広くて大きな背中にドキドキして…離れたくないな、このままずっと一緒に走っていられたらなぁ、
なんて思ってしまって…」
「・・・・?」
──オイオイ、コイツは一体何を言っている?
小野田の語彙力の乏しさは今日の僅かな会話だけでも十分知れている。
だが、せめて語彙の選び方くらいは考えて欲しいと思うのはきっと荒北だけではないはずだ。
これではまるで・・・
「これがゴールを取る人の本気の走りなんだって思ったら、エースでもないボクなんかが体験させて頂いて
良かったのかななんて恐縮してしまったりもしたんですが…
で、でもっ 前を走る荒北さんがとってもかっこよくて…っ、ボク、感動してしまいました!
はぁぁ……本当にかっこよかったなぁ〜。
あんな風に箱学の主将さんは荒北さんに引いてもらえているんですよね………いいなぁ」
ひたすら言いたいことを捲し立て満足したのか、ほわぁと綻ぶような笑顔を向けられた荒北は頭を抱えた。
ただ純粋にすごいと感じたことを述べただけなのだろうが、伝えられた当人はたまったものではない。
脳内はただいま大混乱である。
真波や東堂がえらく気に入っているのは知っていたが、荒北的にはこれといって気になる要素もなかった。
荒北から見た小野田の印象は、細メガネを掛けたちまほそっこくて鈍臭そうなヤツ。ついでに不思議チャン。
一番苦手なタイプだったはずなのに、協調することで芽生えた不思議な感覚がどんどん大きくなり、
今ではもっと彼の事を知りたいとさえ思うようになっているのだ。
オレは何でこんなにも気になっている?
──ワカラナイ
小野田のことだからきっと今言った言葉に深い意味は含まれていないはずだ。
だが万が一の可能性も・・・いや、無いか。
つーか あっても困ンだろーが
困る………のか?
アー・・・ホントウニ ワカラナイ
一度頭を整理したい荒北だったが「それから、」と続いた言葉に、
まだあるのかヨ とげんなりしつつ目線だけを上げるに留めた。
「最後の…、荒北さんの声が、その…とっても嬉しかったので、」
「・・・アー、聞こえてたのか アレ」
どうやら夢ではなかったようだが、改めて思い出すと小っ恥ずかしくて正直忘れ去りたい。
「はいっ。途中何度も苦しくて足が止まりそうになったんですが、あの時の声がずっと頭の中で響いていて…
傍に居てくれている気がして。
そう思ったら嬉しくなってどんどん足が軽くなったんですよ。不思議ですよね!」
“だから ゴール出来たのは荒北さんのお陰なんです”と嬉しそうに語られ荒北は軽い眩暈を起こす。
「荒北さん?…も、もしかして傷が痛むんですか?」
顔を上げれば見当違いな心配をする小野田が覗きこんでいるし。
なんかもう色々痛すぎてヤバかった。
もちろん痛いのは傷ではない。
クソッ
ワケの分からない感情も小野田の発する言葉にいちいち高鳴る鼓動の意味も、あれこれ考えるのはひとまずヤメだ──!
脳も心臓もこれ以上は無理だと訴えかけてくる。
もはやオーバーヒート寸前 思考停止
────限界だった
顳顬の傷に触れようと伸ばされた手を掴むと、指を絡ませグッと自分の方へと引き寄せる。
その拍子にふわりと鼻腔を擽る小野田の薫り。
触れたことで不明瞭だった想いが晴れていくのを感じ荒北は笑うしかなかった。
あぁ そうか
ごちゃごちゃ考える必要なんてなかったのだ。
「!あ、あああらきた さ ん、っ…?」
「小野田チャンのせいでさァ、…ココ、痛いんだよネェ」
どーしてくれンのォ?と捕まえた小さな掌を顳顬と胸へ順に導いてやれば、
大きな目を更にまん丸にさせておろおろし始めたと思いきや人を呼んでくるとか言いやがる。
そんなコト許すはずもないのにオレの手から抜け出そうとするのだこの甘チャンは。
だから先程よりも強い力で引き寄せてやったら、いとも簡単にぽふんと腕の中へ戻ってきたのでそのまま閉じ込めてやった。
「痛いって言ってるオレ置いて ドコ行こーとしてンのヨ」
「で、ですから助けを呼びに、」
「必要ねェ」
「ええええ?!」
小野田チャンに治してもらうし。
他の誰かが治せるような簡単なモンじゃねェんだよ。小野田病ってのは。
気付いた時には浸潤されまくって手遅れ。
医者も吃驚 非常に厄介な病である。
「小野田チャンさァ・・あン時オレに怖くて食べられそうっつったよなァ?」
「ひ、びゃいッ!!あ、あああれはですねっ、ええとぉぉ・・」
「今はァ?」
「・・・ぇ、?」
必死に言い訳を引っ張り出そうとしていた小野田の動きが止まる。
腕の中で こてん、と首を傾げ問われた意味を考えているのだろうか。
メガネの奥の瞳を覗き込み、もっと明確な問いをぶつけてやったらどんな反応をするだろう。
「今もそう思ってンのォ?」
同じ答えが返ってくるだろうがまぁそこは興味本位。聞いてみたくなった。
「いえッ!!強くて速くて本当は優しい人なんだなぁって知れましたし・・
あの、…荒北さんはとっってもかっこよくて、今はその・・・
大好きです!! 」
どんな答えでもひとまず受け止めようと思った。そのつもりでいた。
けれど、気持ちを自覚したばかりの今
何とも無い風を装ってとかムリだ。
逆上せてんのかよってくらい頭がクラクラするし、いつもの憎まれ口をたたく余裕すら今の自分にはない。
アーーー すげぇーカッコ悪ィんだけど・・・
「・・・・・ごめん、小野田チャン・・もっかい言って?」
じわじわと這い上がってくる血液の熱さときっと赤くなっているであろう顔を
小野田の肩口へ隠すように伏せ、請う。
「あ、はい えっと…荒北さんは強くて速くて本当は、」
「そこはいーから」
「え?」
「…………最後の やつ 」
言えと言われたから言ったのに、それはいらないと止められてわけわかんねぇって顔してんだろうな。
伏せていた面を少しだけ上げれば想像通りの顔がそこにあって、ぽかんと口を開けたまま瞬きを繰り返していた。
笑いが込み上げそうになるのを何とか堪えながら、再び肩口へと伏せた額でぐりぐりと促す。
「………早く言ってヨ 小野田チャン」
「ぁああすみませんっ、ええっと…ですから 荒北さんはカッコよくてですね、」
(ンな何度も褒めんな 恥ずかしーから…!)
聞きたいのはそんな言葉じゃない。
もっと直接的で甘い好意の──
「協調して頂いた時より、今の方がもっと ずっと大きくなっていると思います」
「………ウン」
「今は 荒北さんのことが………」
────大好きです